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2013/03/25

美味しいものはひとりで食べても美味しい

米寿にならんかなという母にはいろいろ教えていただいた


妻が出産直後に長期入院した折りには一年以上も長男の育児をし、長女が高校生のときに一人暮らしをしないといけない状況では2時間かけて通い母となった。姪っ子と長女が東京の大学に行っているときには、三人暮らしの母親代わりを四年間やりとげた。

そんな母に感謝の言葉をかけるも『歳をとって孫と一緒に生活できることほど幸せはない』と逆に私に感謝さえしたものだ。

母にはいろんな名言があるが、ものの見事に真髄を付いているものがある。

美味しいものはひとりで食べても美味しい

一人暮らしが寂しくなるひとつのシチュエーションには食がある。美味しいものを食べた瞬間、この美味しさを共有できる人がいれば、と思うことがある。もちろん、孤食よりも歓談しながらの食事は楽しいに決っている。

独り身の女性が連れ添いが欲しくなるのは、レストランに独りで食べる悲哀さを想像したときだと聞いたことがある。

美味しいものを食べているのに、それに満足せず、共有する相手のいない不幸せを嘆くのでなく、『美味しいものはひとりで食べても美味しい』とあっけからんと楽しむ生き方にはいろいろと考えさせられる。

無への道程ではないが、死ねば無になり何億年後かには宇宙そのものさえ無くなる、ある意味この世界には時間という概念さえ無いのもかもしれない、はかない人生に生きる価値を見いだす徒労は哲学者だけでいい。

より多くの幸せを強欲に求めるあまり、折角のいまの幸せの瞬間さえも悲哀さを感じるのは愚かだと、母親は教えてくれた。

自殺した無への道程の方も、予定している幸せを強欲に追い求めた結果、それが達成できる見込みが無くなり、働く意欲が無くなり貯金が底をついたときに死を選んだ。

向上心という言葉で、いま以上の幸せを追い求めることが美学であるかのような生き方は、高度成長期なら許せたが、これからの時代に合った生き方ではない無い。

『未来の健康との幸せ交換』にも通じる考え方のようだ。

しばらく考えて行きたい。

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