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2012/11/30

講ずべき自殺対策は経済対策

2012年10月末に彼は自殺し、はやひと月が過ぎた。

当初はブログや掲示板で動揺が走ったが、今は落ち着きを取り戻し、『無への道程』という主が居ないブログのみが残り、何事も無かったようにインターネットは再び動き出した。

いわゆる自殺日記はインターネットの夜明けともいえる1999年に衝撃を与えた『終る世界』が有名だ。これはノンフィクションというよりも、その構成や描写力から実験的なフィクションと言えるだろう。

もちろん、本当に自殺したかのようなブログ日記はいくつもあり、インターネット上で墓標のように遺っている。ただ、己の精神的内面を描写する筆力が弱く、心に残る記録は少なかった。

会社人間からセミリタイア生活への踏み出し


彼がブログを書きだしたのは、2009年8月10日の次の日記(旅の無事を祈っても仕方ない)からだった。
南アランドを軸にセミリタイアを目指します
47万ランド
レバレッジ3.03
LCライン7.93
どこにでもありふれたFX取引日記の開始宣言だ。その背景には、閉塞感で窒息しそうなワーキングプア地獄から脱出しようとする彼の最後の選択を感じる。

選択は運を天に任せるギャンブルの世界2年間だった


その後の2年間は順調に進捗するFX取引記録だったが、2011年3月11日の東北大震災後の急激な想定外の円高により、2011年3月17日の次の日記(全ポジション決済。恐らくブログ終了)で、その取引が終了となる。

少し前、全てのポジを決済しました。
正確な損失額はまだ分かりませんが、おおよそ150万円失われました。
343万円から189万円。
まぁ、全財産吹き飛ばすよりはいいでしょう。
震災に遭われた方に比べれば…
しかし、残念ながらFXの取引はもう行わないと思うので
これでこのブログも終了となると思います。
これからどうしよっかなぁ…
そして、自殺へのカウントダウン開始となるのが、2011年6月9日の日記(迷惑を掛けない死)からだ。その後1年余に渡ってカウントダウン日記が続く

生きる意味を問う生とは何かの実践的哲学的日記が1年以上続いた


残った189万円を使いきってから自殺するというのが、唯一の彼の自殺への躊躇だったが、あらゆる言葉も彼には無力だった。

彼は60歳や80歳まで生きることは年金問題などから諦めていたが、せめて50歳まで生きたいという望みさえも絶たれた無念さが日記から聞こえてくる。その叫びは、2000万円をあげるといわれれば自殺は止める、という言葉さえもインパクトは薄くなる。

自殺対策は精神保健の領域か?


彼の自殺からは、精神保健領域でなく、経済領域の課題のように思えてならない。

年間3万人を超える自殺が課題となったものの、自殺対策に予算が振り向けられて3年を超えた2012年、3万人を割ろうとしている。













2012/11/25

年収20万円で生活する陶芸ビンボーさん

某所で生活保護を目指すIターンの消息の話になった折り、屋久島のビンボーさんの話題に流れた。

ここ屋久島での貧乏生活は月3万円が最低ラインだから、家賃が無ければ2万円、携帯を持たなければ月1万円で生活できる。家があり携帯無ければ、年収20万円で生活するのは全然驚くに値しないなぁ、だけど陶芸に興味があり、紹介していただくことになった。

事前把握のために、インターネットで、屋久島、陶芸、ビンボーでぐぐると、団塊の世代の定年移住のブログにヒットした。テレ朝の銭形金太郎で超有名な人とのこと。年収20万円で生活するというのは、陶芸の売上が20万円から来ているらしい。

さて、当日


事前情報では焼酎好きとのことなので、ドラモリで黒白波を手土産に訪問した。突然の訪問なのにニコニコ顔での歓待モード。部屋を掃除してから座布団を3枚セットしておもてなしの始まり。
突然の訪問は致し方がない。そもそも電話が無いし携帯電話が無いのだから突然の訪問か郵便による連絡しかない。
まずは、囲炉裏でお湯を沸かし、自分の畑から採取したお茶を自作のすり鉢で粉にしての粉茶を、自作の陶器でもてなし。

お茶を出すまでの会話も実にいい。つい最近3日間連続でテレビ取材があった、ある取材班が寝るのは枯葉ですか?など失礼な質問があったので断った、もうテレビの取材は嫌だなど笑いながらしゃべっている。
『歳はいくつでしたっけ?』
『年金生活が始まったばかり。8000円も貰えるんだよ』
『おっと私と同じ年令だから60歳か。厚生年金の上乗せ部分ですね』
『27歳まで会社に勤めていたからね』
8000円の年金とは、ふた月なのか、年間なのか、ひと月なのか、突っ込むのも野暮だが、どちらにせよ、彼にとってはありがたい話。ただ、65歳からの基礎年金は受給資格が無いと思われるが、これも彼にとっては大したことではない。

27歳まで会社勤務をしており、30歳で屋久島に移住し、30年経過し、いま60歳。それが短い会話で伝える術に舌を巻いた。

醤油を作っている、畑に大麦を植えてビールを作りたい、豆腐は作ったが、挑戦中は納豆だが作った納豆を食べたら腹が痛くなり軟便になったなどなど、そのリズム感は立川談志を彷彿させる。

話に引きこまれていると、フライパンに油を引いて囲炉裏でポップコーンを作り出した。これはお客をもてなす心意気だろう。いやはや。

屋久島の山奥に引きこまなければ、また違った人生があったと思われた。

たった一本の焼酎なのに、私が畑に興味を抱いたからか、今が旬の椎茸が満開になっている朽木も含めて彼の畑を全て見せていただいた。1000坪の畑を丁寧に開梱ししっかりと植えている。

なぜ菊池さんに引き寄せられるのか


自分の幸せのため、家族の幸せのため、みんなの幸せのため、身を粉にして働くものだと教えこまされきた団塊の世代にとっては、決して近寄ってはいけない生き方なのに、意外に親和性がある。

もちろん、菊池さんの明るいキャラクターもあるが、陶芸をしているという生産的な活動も受け入れやすくしているのだろう。

2012/11/21

家賃込み月3万円で生活する男

S君と初めて出会ったのは、ヨットマンの小屋を訪れたときのことだった。

屋久島の晴れた夏の昼間なのに、二人が屋内で沈黙のまま携帯電話でインターネットを見ているのか黙々と操作している。

『誰?』
『S君。居候中』
『S君こんにちは』
『・・・・』

俗に言う、引きこもりか、挨拶しても返事もしないで携帯を操作している・・・・

その後、半年経ったころ、事情によりヨットマンが福岡に移住した。

残るは居候だったはずのS君。150坪の土地付き家の主となっていた。

生きるチカラがあるヨットマンが居なくなった屋久島で、引きこもり男が一人屋久島で生活していけるのか、気になる人は多いようで、アクセサリー販売屋、大工などなど島内の人々の応援で生きていた。

『どうやって生活しているの?』
『月の生活費は3万円。家賃が1万円、携帯代が1万円、食費が5000円、区費が1000円、電気代が1000円、その他3000円。屋久杉のアクセサリー売上が3万円。貯金は150万円あるので当分は大丈夫だよ』
『国民年金などは?』
『払わないよ、その頃には親も死ぬので遺産が入る』
居候を屋久島に呼んでいおいてヨットマンが勝手に福岡に一人で移住して、家賃一万円はS君はお人好しと感じた。

『家賃の一万円は相場から考えると高いじゃないかな?』
『実際は350万円で購入されたことになっており30年間毎月1万円を払えば自分のものになる』
『そういう話ならいいがヨットマンが死んだとき相続人とトラブルが起きるな。注意した方がいい』
親は裕福。親子のつながりが消失しているが崩壊はしてない。親は妾の子なので墓は無いが死ねば自分の責任で埋蔵する。本人は小学校から裏千家の修行を10年以上しており、大学は高野山大学。知ればそれなりの精神世界を持っているのに驚いた。

『150万の貯金はどうやって貯めたの?』
『ヨットのインストラクターをやっていた。時給は1万円だったのでお金には困らなかった』
『なんで来たの?』
『月に1万円で生活できるので来いと言ったから』

欲を捨て去ることで得られるもの


水道代は基本料金が600円が最低限必要だが、それほど使わないので解約した。水は清流から汲んでくる、

風呂は雨水。

ガスは不要、薪で十分。

玄米が基本で、ネギなどの野菜は庭に植えている、タンパク質は卵。

ステーキ肉、鱧など美味と言われるものを差し入れするが、貪欲に食べるものの、美味いものを食べるために生活スタイルを変える兆しは無い。

うまいものをたらふく食うために、毎日あくせく働き欲望にまみれるのもいいが、彼のような食に拘ない生き方の清々しさに、ふと引きこまれた。

生活費がかからないことから得られる幸せは彼にとっては大きい。


バイトやパートを軽くやれば月に10万近くの収入が得られるが、その仕事のために我慢しなければいけないストレスは大きい。彼は屋久杉を時間をかけて丁寧に磨いて、アクセサリー販売店に卸し、月に3万円の売上がある。

屋久島に来る前は、軽トラに家財一式を入れ、炊事から宿泊までしていたので、生活スタイルそのものが、誰にも依存しないで生きていける。その幸せを見つけたようだ。

朝夕は玄米を炊き汁物に卵や庭で採れた野菜を入れ、昼はスパゲティか棒ラーメン。煮炊きは薪なのでかなり時間がかかる。昼はアクセサリー作り、創意工夫を絶えずしている。夕方から寝るまでは趣味のウクレレ。

今の目標は、庭の隅に機織り作業所を作ること。老後の夢は子どもたち相手にウクレレ教室をしたいなどなど、最初に出会ったときに引きこもりとレッテルを貼ったが、話を聞けば聞くほど生身のひとを感じるようになった。

一週間後、


彼の家の前を通ったら、『松峯機織り工房』という看板が立っていた。やはり若いだけあって、実行力がある。