ページ

2017/03/13

閥からの解放

65歳の定年退職を迎え年金もフル受給できる日も近くなり何とも言えない解放感を味わっているのは、たぶん、長い長い40年ほどの閥からの解放なのだろう。

閥は無意識のうちにその構築と維持に明け暮れていたヒンドゥー教の言う家住期のテーマだった。この気持ちは東大の医学部教授を早期定年退職した日に思わず口笛を吹いてしまった養老孟司にも通じているかもしれない。彼はそれを分析するにNHKの放映では公務員の職務専念義務からの解放と言っていたが彼にしてはあまりにも違和感の残る自己分析だったと思う。

さて、ヒンドゥー教の言う学生期までの閥は家や血そして土地さらには学歴と閥の基本を構築する重要な時期であったが、その後、結婚や就職を迎えて閥をさらに充実させ維持するのが家住期の重要な役割だ。

具体的に閥を意識したのは医学部を卒業するまで悩んでいたどの教室に所属するかという選択だった。学生時代は柔道部に所属しており整形外科教室の腰野先生が閥の構築に勤しんでいた。内科や外科とは違い、命には直接関与しない整形外科は高齢者の医療では将来需要が必ずあるという観点からはそれなりに選択肢としては学生に人気があった。

横浜市立大学医学部は戦後できた新設医学部のため教授のほとんどは東大出身者であった。西丸与一法医学部教授の思いは横市医学部での臨床分野でのプロパー教授誕生であった。閥の構築に長けた腰野先生はその後初のプロパー臨床教授を経て病院長まで登りつめたのは当然の結果と思う。

その当時の私は閥という実力以外での権力に嫌悪感を抱いたのだろう、横市医学部という閥からの離脱を選択し神奈川県の保健所に職を見つけたが、その保健所にも横市医学部という閥がありそれを結果的に甘受することになった。

所属した厚木保健所長は横市の先輩の鈴木忠義であり県を担う若手のホープだった。その後任は藤井所長であり彼も横市そして私の結婚式では仲人をお願いした。ものの見事な私の閥の構築と維持だ。

厚木保健所には厚生省から橋爪章が研修の名目で配属されたのは篠崎英夫氏の地域保健課長補佐の神奈川閥の構築の一環だったと想像している。

結果的に神奈川県から厚生省に異動したのは30歳前だった。