昨日の2010年心肺蘇生での熊毛地区での決定はある意味画期的だった。従来は心マッサージ+呼吸管理が、エビデンスから呼吸管理してもしなくても差無しだから、今後の心肺蘇生は心マッサージだけで行うべしが、学会的にも世界的にも主流だったが、MC地域協議会の麻酔科部長の説明に驚愕した。
私は臨床医ではないし症例も持っていないが、意図的な酸素供給無しでもいいという方針転換にエビデンス主流医学に従わざるを得ないのか思っていたが、今日、種子島の麻酔科部長が、少なくとも、屋久島のデータからは、それを否定するものしか得られなかったとのこと。
従って、熊毛地域は・・・
屋久島、種子島では従来法である呼吸管理を併用した方が、復帰率が高いとの報告により、熊毛地区では呼吸管理も行うことが承認された。離島では呼吸管理を併用した心肺蘇生の方が植物状態になりにくいの言葉に離島で頑張っている麻酔科部長の人の命を大事にする気持ちが感じられて嬉しかった。
学会の方向や世界の方向と違った提案に驚いた。離島特有の事情があるのかと尋ねたら、主要病院までのアクセスが1時間が通常の離島事情から考えれば、酸素供給無しの延命は植物状態になる確率は高くなるのではないか、基本的にスキルが上の救急隊員による心肺蘇生が多いのかもしれない、との部長の言葉に、両手を上げて納得した。
計画的な手術ではなく、緊急的な手術に対応にするには離島では血液そのものが日赤には頼れない宿命がある。消化管出血、大動脈破裂、事故などの症例に血液なんて事前に用意できないので、厚労省が生血輸血のリスクを提示しているが、離島は離島で人の命を助けるために、生血輸血体制に踏み込まざるを得ない。
国の役割、都道府県の役割、二次医療圏の役割、それぞれが大事だが、一番重視しなければならないのは二次医療圏が、机上の論理ではなく患者を助けるという現実的な課題がある。
少し、詳しくない分野だが、離島における救命救急体制を現場の医師とともに語ったので、必ず、修正加筆する前提で今日、書くことにした。
(未了)
2013/01/24
2013/01/22
小沢一郎の生き様
政治家小沢一郎と自民党幹事長時代から同時代的に生きて来た。生身の小沢を見たことも聞いたこともないが、シンパシーは保ち続けてきた。
47歳の若さで自民党幹事長になった頃、竹下派会長代行として次の総理候補を選ぶために、渡邉美智雄、三塚博、宮沢喜一を事務所に呼び出し口頭試問をした。年もかなり上の宮沢さんが満面の笑みを浮かべて小沢を持ち上げている映像が何度も流された。
51歳のとき自民党を離党し、自民党政権が途絶えるなどとは想定できなかった当時、非自民連立政権が出来上がってしまった。政権交代を国民が選択をした民主党政権とは違い、政治力を駆使しての想定外の非自民連立政権だから、小沢一郎の実力を率直に評価した。
56歳、新生党、新進党を経て自由党時代になると、結集した議員が54名と少なかったことから小沢神話の崩壊がマスコミに公然と流され始めた。
自自連立を経て自自公連立により政権に復活したが、自由党外しだったのか、小渕首相が連立解消の会談直後のコメント時に発症したと思われた脳梗塞で倒れた。58歳当時、自由党は分裂し22名しか小沢側に残らなかった。
その当時のマスコミは小沢からは人が離れるといういわゆる人格攻撃的な報道もされ始めた。22名しか残らなかったにも関わらず、ふと気がついたら、民主党と合流し、結果的に民主党代表になったのは64歳、そして政権交代までしてしまった。
結果的に無罪になった陸山会事件もあり、小沢一郎にはシンパシーは抱き続けてきた。
民主党を離党し、陸山会の無罪確定もあり、やっと小沢一郎の手腕が見れるかと期待するも、維新と組めず石原慎太郎とも距離感があり、第三極の結集も無理と思っていた矢先に起きた未来の党発足、これこそが小沢マジックが出たと思った。
嘉田党首は毎日テレビ出演し、卒原発や子ども手当の復活など、ソフトであるもののしっかりとした語り口で喋っていた。理想的な流れだ。しかし、111名が立候補するも61名から9名への減少という結果に、未来の党構想は失敗に終わった。小沢一郎70歳。
これは嘉田党首の失敗ではなく小沢一郎戦略の失敗である。
既に70歳そのまま引退してもいい年齢だが、未来の党を嘉田党首から元の自分の党に戻したのは、それこそ豪腕そのもの。そして、今度の参議院選挙に次のステップを見ている。確かにねじれ国会にすれば、絵も描ける。
対照的な生き方としては、55歳で首相になった細川護熙は、退陣後は陶芸や茶道で過ごしているとのこと
(未了)
47歳の若さで自民党幹事長になった頃、竹下派会長代行として次の総理候補を選ぶために、渡邉美智雄、三塚博、宮沢喜一を事務所に呼び出し口頭試問をした。年もかなり上の宮沢さんが満面の笑みを浮かべて小沢を持ち上げている映像が何度も流された。
51歳のとき自民党を離党し、自民党政権が途絶えるなどとは想定できなかった当時、非自民連立政権が出来上がってしまった。政権交代を国民が選択をした民主党政権とは違い、政治力を駆使しての想定外の非自民連立政権だから、小沢一郎の実力を率直に評価した。
56歳、新生党、新進党を経て自由党時代になると、結集した議員が54名と少なかったことから小沢神話の崩壊がマスコミに公然と流され始めた。
自自連立を経て自自公連立により政権に復活したが、自由党外しだったのか、小渕首相が連立解消の会談直後のコメント時に発症したと思われた脳梗塞で倒れた。58歳当時、自由党は分裂し22名しか小沢側に残らなかった。
その当時のマスコミは小沢からは人が離れるといういわゆる人格攻撃的な報道もされ始めた。22名しか残らなかったにも関わらず、ふと気がついたら、民主党と合流し、結果的に民主党代表になったのは64歳、そして政権交代までしてしまった。
結果的に無罪になった陸山会事件もあり、小沢一郎にはシンパシーは抱き続けてきた。
民主党を離党し、陸山会の無罪確定もあり、やっと小沢一郎の手腕が見れるかと期待するも、維新と組めず石原慎太郎とも距離感があり、第三極の結集も無理と思っていた矢先に起きた未来の党発足、これこそが小沢マジックが出たと思った。
嘉田党首は毎日テレビ出演し、卒原発や子ども手当の復活など、ソフトであるもののしっかりとした語り口で喋っていた。理想的な流れだ。しかし、111名が立候補するも61名から9名への減少という結果に、未来の党構想は失敗に終わった。小沢一郎70歳。
これは嘉田党首の失敗ではなく小沢一郎戦略の失敗である。
既に70歳そのまま引退してもいい年齢だが、未来の党を嘉田党首から元の自分の党に戻したのは、それこそ豪腕そのもの。そして、今度の参議院選挙に次のステップを見ている。確かにねじれ国会にすれば、絵も描ける。
対照的な生き方としては、55歳で首相になった細川護熙は、退陣後は陶芸や茶道で過ごしているとのこと
(未了)
2013/01/19
いつもの散歩友達が熟年離婚に遭遇した
金曜日だったのと、散歩途中で会話したので、今日、仕事が終わり家に帰るのが17時半だから、飲みに来ないかと誘った。
来るそうそう、とうとう女房が離婚届を提出した、と本当に寂しそうに口を切った。
ちょっと前までは、人身事故もし、鬱状態を解消するために転地が必要と屋久島から鹿児島市に奥さんが一人で引越しをした。彼女の思う通りにさせてあげたいとの思いのまま、鹿児島市への引越しの応援をし、自分自身は一人で屋久島に留まった。
ある日、私に家を買わないかと尋ねたので、いいよと応えたが、家が大きいので私の目論見とは違っていた。売りたい理由は68歳になっての一人暮らしは寂しい、女房がいる鹿児島市へ行きたいとのこと。
そして、一週間。女房から離婚届が送られてきた。署名と捺印をして送り返せば、彼女の心の安定になるならばと考えて、率直に送り返した。息子から立ち会い人としての署名を求められたが、次男は拒否をしたと安堵していた。
それが突然の離婚届への実姉の署名を得ての提出に彼自身、葬式代の150万円があることを息子に伝え、その後を委託した、とのこと。
あまりにも淡々としているのに驚いたが、熟年離婚を突きつけられる男側の悲哀に為す術のない状態に声をを失った。
熟年離婚、女側に問題がないのだろうか?
親父が70歳で死んで一年目に一人で寄島の家を守っている母親の元へ正月に帰省した日のことだ。いつもの美味しい雑煮が食べられると思ったら、子どものときから食べた鶏ガラベースの具沢山の濃くのある雑煮でなく、あっさりベースの昆布鰹節ベースの雑煮が出てきたのに驚いた。
母親と父親が仲が悪いのではない。父親が死んでから本当に沢山の人が焼香に来たが、母親はそれまで私と楽しく雑談していたのに、父親の友人が来ると、生きていたときのこと、死ぬ間際のこと、涙ながらに語り始める。いわゆる語り部そのもの。お参りにきた父親の旧友も来たかいがあったのだろう、涙ながらに帰る。
そのお袋も今は87歳。4年前に脳出血で、今は認知症。語るのは、自分の怖い父親に怒られたこと、兄弟の話、息子の私、娘の話、孫4人の話。そう、連れ添いのことが欠落している。
男は女房を心から信じているが、女は夫をどのようにみているのか、所詮は赤の他人じゃないか、そんな気がしてならない。
夫は順従な女房を見ていて信頼しすぎているのではないだろうか?セックスにしても養っているという意識にしても力仕事にしても俺なしで女房は生きていけない、
それは誤解であるような気がしてきた。女房は虎視眈々とチャンスを狙っている、経済的な独立ができれば、頼れるいいオトコができれば、割りと簡単に捨てられる、そんなリスクに備える必要があると思えてならない。
お袋のあの雑煮を食いたさに帰郷すると・・・
親父が70歳で死んで一年目に一人で寄島の家を守っている母親の元へ正月に帰省した日のことだ。いつもの美味しい雑煮が食べられると思ったら、子どものときから食べた鶏ガラベースの具沢山の濃くのある雑煮でなく、あっさりベースの昆布鰹節ベースの雑煮が出てきたのに驚いた。
何これ?お袋も70歳。親父ぴったりと生きてきた人生、連れ添いが死んで初めての正月、息子が帰ってきたときの雑煮が母親が味わっていた石川の雑煮を出したことに、父親と結婚しての50年間はじっと我慢の日々だったのだろう。やっと連れ添いが死んで作った雑煮が故郷の石川の雑煮に女の性を感じた。
お母さんの実家の石川の雑煮。美味しいでしょう?
子供のときから食べていた雑煮が食べたさに帰ったのに・・・
母親と父親が仲が悪いのではない。父親が死んでから本当に沢山の人が焼香に来たが、母親はそれまで私と楽しく雑談していたのに、父親の友人が来ると、生きていたときのこと、死ぬ間際のこと、涙ながらに語り始める。いわゆる語り部そのもの。お参りにきた父親の旧友も来たかいがあったのだろう、涙ながらに帰る。
そのお袋も今は87歳。4年前に脳出血で、今は認知症。語るのは、自分の怖い父親に怒られたこと、兄弟の話、息子の私、娘の話、孫4人の話。そう、連れ添いのことが欠落している。
男は女房を心から信じているが、女は夫をどのようにみているのか、所詮は赤の他人じゃないか、そんな気がしてならない。
熟年離婚に備えるために
夫は順従な女房を見ていて信頼しすぎているのではないだろうか?セックスにしても養っているという意識にしても力仕事にしても俺なしで女房は生きていけない、
それは誤解であるような気がしてきた。女房は虎視眈々とチャンスを狙っている、経済的な独立ができれば、頼れるいいオトコができれば、割りと簡単に捨てられる、そんなリスクに備える必要があると思えてならない。
2013/01/13
60歳からが人生で一番幸せなときか
何かに強いられた60年
死が見える60歳を過ぎたとき、余生の短さに人生の悲哀を感じたが、何故か心が安定しているのが不思議だ。
振り返れば、子供時代は親や学校に従い。自我が出始めた高校時代はクラブ活動はするものと柔道部での辛い練習をしつつ、大学は行くものと受験に向けての勉学
やっと自由が得られたかと思いきや、大学時代も勉学と国家試験の詰め込み暗記。仕事をし始めてこれで自由かと思ったものの、組織というものに馴染もうとし、私生活では結婚をし、子どもが生まれ、社会的責任を感じつつ、その中でも自己実現のために邁進した。
経済的安定を目指しつつ、後継者の育成に挑戦もした。振り返れば、60歳までの人生は、何かに強いられて生きて来た。
強いられることのない20年、老後こそ人生そのものか
子どもも独立し、仕事へのスタンスも成熟段階、夫婦も子育てという大きなハードルを超えたとき。考えれば、いまは強いられた目標も責務も少ない時期なのだろう。
ここ3年ほどは、休日には、魚釣り、サイクリング、露天風呂、サウナ、手打ちうどんや昆布と鰹節からの本格出汁作り、くさや汁を作ったり、糠味噌にも挑戦している。
仕事へのストレスも少なくなり、家族への義務も減り、時間的余裕も生まれ、自分自身を見つめる時間的余裕が生まれた、60歳から70歳まで、80歳まで、それが人生で一番エンジョイできるときと、実感し始めた。
健康のためというより、楽しく生きるために運動をし、映画や音楽で感動し、学習で達成感を感じるときが来たような感がする。
2013/01/11
屋久島一周サイクリングで見つかったもの
朝8時6分出発、夕方16時40分着、実走行時間は7時間6分、休憩時間は1時間28分、走行距離は96.9キロメートル、平均速度は13.4キロメートル、サイクルコンピューターによる消費カロリーは6556キロカロリー。
消費カロリーが6000キロカロリーを超えている。フルマラソンでも80キログラムの体重だと3200キロカロリー程度なのに屋久島一周サイクリングでこの数字は多すぎるように思えたが、24時間前の体重が82.1キログラムだったのが、サイクリング一周後は81.0キログラムと1キロの減少だから、脂肪が1キログラム燃焼したことになるから、それほど間違いはないようだ。
ウォーキングで同じ効果を発揮するには10万歩は必要だから10日間毎日2時間ほど歩かないといけない運動量を一日で達成できた。
2013サイクリング屋久島のコースガイドを見ても分かるように、平坦な道はなく、アップダウンを集落毎に何度も繰り返す。特に西部林道は300メートル近い峠を繰り返す。
アップダウンがあるから楽しい。登り坂を頑張れば必ず下り坂というご褒美がいただける。登り坂が辛ければゆっくりと歩けばいい。今回は、西部林道では50分ほどゆっくりと歩いたし、後半はバテバテなので無理せずゆっくると登り坂を歩いた。
いろいろと分析をしたくて、Google検索をしていたら、信州大学のテキストが見つかった。その内容たるや、40年前に医学部で学んだ私にとっては、新しい知見を網羅したものだった。
運動構造機能学
トレーニング学
リハビリテーション医学
いろいろと分析をしたくて、Google検索をしていたら、信州大学のテキストが見つかった。その内容たるや、40年前に医学部で学んだ私にとっては、新しい知見を網羅したものだった。
運動構造機能学
トレーニング学
リハビリテーション医学
- リハビリテーションとは
- リハビリテーション医療と保健・福祉
- リハビリテーションの過程とチーム医療
- 障害のとらえ方
- リハビリテーションにおける看護師の役割
- リハビリテーションにおける理学療法士の役割
- リハビリテーションにおける作業療法士の役割
- リハビリテーションにおけるソーシャルワーカーの役割
- 脳卒中のリハビリテーション
- 変形性関節症のリハビリテーション
- 循環器疾患のリハビリテーション
- 呼吸器疾患のリハビリテーション
- 糖尿病のリハビリテーション
- 地域リハビリテーションの概要
- 地域リハビリテーションの実際
- 福祉国家と社会保障
- 日本の医療制度
- 地域の中の医療
- 戦後福祉の展開と社会福祉基礎構造改革~保育所の例から
- 地域保健と地域福祉~コミュニティの確立
- 精神保健・福祉の展開
- 障害者福祉と自立支援~介護保険との関係
- 高齢者福祉とエイジング
- ジェンダーとセクシュアリティ
- 調査倫理と個人情報保護
- 地域福祉の担い手と地域福祉計画
- 加齢:適応と可塑
- 生態リズム:日内リズムと加齢リズム
- 高次中枢機能:霊長類の特性(痴呆)
- 生活習慣病:総論(人に与えられた尊厳)
- 生活習慣病:糖尿病と肥満
- 生活習慣病:高脂血症と健康診断の検査値
- 生活習慣病:動脈硬化と急性心血管病化
- 生活習慣病:高血圧と脳血管生涯(血圧と加齢)
- 生活習慣病:骨粗鬆症とカルシウム
- 腫瘍:加齢と腫瘍の発症
- 免疫の病気:加齢と自己免疫疾患
- 免疫の病気:発症のからくり
- 性差医療:性ホルモンと成長ホルモン
- 内分泌:加齢と適応
- 老化・寿命・心:与えられた命
- 老化(加齢)とは?
- 老化の遺伝学(1)
- 老化の遺伝学(2)
- 老化の遺伝学(3)
- 老化の遺伝学(4)
- 老化の遺伝学(5)
- 老化と分子障害
- 細胞レベルでの老化
- 百寿者の科学
- ダイエットと老化
- 神経の可塑性(1)
- 神経の可塑性(2)
- 神経の可塑性(3)
- 難聴の遺伝子
- 運動と遺伝子
こころの医学
スポーツリハビリテーション
健康機器開発工学
遺伝疫学
スポーツリハビリテーション
- スポーツリハビリテーション概論
- 肩関節のスポーツ傷害と治療法
- 肘関節のスポーツ傷害と治療法
- 手指のスポーツ傷害と治療法
- 脊柱のスポーツ傷害と治療法
- 膝関節のスポーツ傷害と治療法
- 足部のスポーツ傷害と治療法
- コンディショニングの概要
- ストレッチング
- スポーツマッサージ
- テーピング
健康機器開発工学
遺伝疫学
- 医用統計学
- 疫学の基本
- 疫学 -記述疫学、分析疫学-
- 疫学 -介入研究、スクリーニング-
- Bias、交絡因子とその防止、制御方法
- 遺伝疫学の基礎, メンデル遺伝と多因子遺伝
- 分子遺伝学の基礎
- メンデル遺伝と多因子遺伝
- 遺伝疫学の基礎
- 遺伝学的研究と生命倫理
この内容たるや、その広さと深さに驚嘆し、久しぶりに刺激を受けた。信州大学医学部の大学院の教材のようだが、この膨大なテキストを作成した方が見えないが、その識見に脱帽
このままインターネット上で公開し続けてほしい
このままインターネット上で公開し続けてほしい
定年退職後の男の悲哀
高齢者対策の基本は子ども対策と違って、そこまで生きて来た結果として基本的には自己責任原則となる。老後の生き方を見るだけでひとというものが見えてくる。
これが、退職金もあり年金もあり貯金もあり資産もあり、アウトドアの趣味がある62歳の男のつぶやきだ。
じゃ仕事かというと、仕事の口はある、警備員の仕事もあるし、タクシーの乗務もできるという。しかし、日々の生活に困らない年金生活を捨ててまでの魅力ある仕事ではないようだ。
いろんな人がいる。悲哀も感じるが、いわゆる定年後の男の生き方に思いを馳せたい。
錦江湾でウィンドサーフィン三昧の人生
定年後を生きていくには趣味を持たないといけないと、訓話を職員にしていた次長級で退職した県職員がいた。彼の趣味はアウトドアで屋久島では釣り特にエギングを得意としていた。定年直前の三年前に出身地である屋久島に異動してきたとき趣味であるウインドサーフィンを持ってきたほどのアウトドア派だ。
ヨットクルージングの知人がいたので、彼を誘ったところ嬉々として参加し、定年後の夢は日本全国の港をヨットで巡りたいと語っていた。それは夢にしか過ぎないのは誰にも分かる。ヨット未経験者が単独走行で沿岸と云えども甘い世界ではない。
職員には信望があり有能な方だったが、県庁での職務に疑問を持ち自らの希望で異動を希望したとき、上級職としてのルートから外れることを覚悟した。そんな自由な生き方をしていた。退職直前に311東日本地震が起きたが、彼は当然の如くボランティアとして東北に行った。
いわゆる天下りもあったらしいが、そこも一年で辞めたのも、彼らしい人生。そして今年の正月、錦江湾でウインドサーフィン3時間爆走との楽しい年賀状が届いた。文句なしの定年後の人生かと思っていたが・・・その後のメールで
仕事がある人は羨ましいまさかのフレーズ。人生は一度、自分の好きなことを、などの言葉が出てくると思っていた。在職中から心を通じた付き合いをさせていただいたから、つい本音が出たのかもしれない。
これが、退職金もあり年金もあり貯金もあり資産もあり、アウトドアの趣味がある62歳の男のつぶやきだ。
趣味の畑や木々の刈り込みの日々の68歳の年金生活
朝のウォーキングでよく会う近所の人だ。毎日、朝と夕方ウォーキングをしており、自宅の庭の木々は綺麗に刈り込みをしており、惚れぼれとするような敷地でゴミひとつ落ちていない。昼間に会うと自宅前の歩道の植え込みまで綺麗に刈り込んでいたり、落ち葉を丁寧に拾っている。
厚生年金だから月に十数万円だが、屋久島なら月に5万円もあれば生活できるから金銭的にはかなりの余裕がある。屋久島には5名ほどの兄弟が健在でいとこも近くに住んでいるが、子どもは福岡と鹿児島に住み、奥さんは病気で鹿児島市に行っている。
呼ばれて家を訪問すると、これまた寡夫ぐらしとは思えないほど、ゴミどころかほこりひとつなく、置いているものが置かれるところに几帳面に整理整頓されている。食事も健康的だ。朝は卵と納豆、昼は大好きなうどんに野菜、夜は魚のアラ汁に焼酎の晩酌。
何も問題がないと思っていたら、
することがないから15時から焼酎を飲んでいる、誰も訪れない、年末に妹が来ると電話があったが姪っ子が食材を届けにきただけだった兄弟がおり姪っ子や甥っ子もいるし、いとこも近くにいるんだから、寂しくないだろうと言うと、親戚と云えども用事があれば会う程度で気が合う訳でもない。
じゃ仕事かというと、仕事の口はある、警備員の仕事もあるし、タクシーの乗務もできるという。しかし、日々の生活に困らない年金生活を捨ててまでの魅力ある仕事ではないようだ。
画一的な定年制度や年金制度は個々の人生を崩壊させるのではないか?
60歳定年を65歳までの雇用保障へと世は動いているが、年金崩壊のための施策ではなく、個々の人の幸せを大事にする制度設計が必要な気がする。
イメージとしては、ベーシックインカムを基本とし、そこに生活維持のための苦役としての仕事ではないバラエティ豊かな勤務の提供が理想的だと思われる。
ベーシック・インカムは新党日本が提唱し、日本維新の会の綱領にも絶えず見え隠れしている。
大雑把に言えば、生活保護制度、年金制度、各種福祉施策をすべて廃止し、全ての国民に最低限の生活費を支給する経済学的な考え方。福祉関係職員の全廃に伴うスリムな政府が構築できれば財源の一部になる。
失敗したが民主党の子ども手当ても概念的にはベーシックインカムの子ども版と考えることができる。基本は複雑な制度設計が必要となる所得制限を撤廃しなければならないのに、公務員の仕事を増やすことになってしまった。
ベーシック・インカムは新党日本が提唱し、日本維新の会の綱領にも絶えず見え隠れしている。
大雑把に言えば、生活保護制度、年金制度、各種福祉施策をすべて廃止し、全ての国民に最低限の生活費を支給する経済学的な考え方。福祉関係職員の全廃に伴うスリムな政府が構築できれば財源の一部になる。
失敗したが民主党の子ども手当ても概念的にはベーシックインカムの子ども版と考えることができる。基本は複雑な制度設計が必要となる所得制限を撤廃しなければならないのに、公務員の仕事を増やすことになってしまった。
たとえば、豊富な業務内容の幅広いボランティア登録制度があればアウトドアとの両立ができるだろうし、歩道の植え込みの刈り込み隊のNPO法人があれば15時から飲酒することもなくなるだろう。
ベーシックインカムになれば、定年という概念そのものが無くなる、働き方も変わる、様々な社会参加が可能となる、ボランティアという概念も無くなるだろう。
ベーシックインカムになれば、定年という概念そのものが無くなる、働き方も変わる、様々な社会参加が可能となる、ボランティアという概念も無くなるだろう。
2013/01/06
貧乏力を考える
厚労省の中部空港検疫所支所長を拝命したのは平成19年の7月だったが、16年ぶりに体験した官庁の閉塞感、霞が関以上に閉塞感に埋没している地方出先機関の凄まじさに、想定していたもののあらためて確認することになった。
吉祥寺で成功したお好み焼き屋。週3日は八丈島に釣り三昧を楽しんでいたというのだから、かなりの成功だったと思われる。彼は突然閉店し屋久島に移住し、原地区に掘建て小屋を10万円で建てて晴耕雨読を試みていた。いろいろと話を聞いた。
家賃1万円、携帯電話代1万円、食費5000円、電気代500円、自治会費1000円、焼酎代3000円などなど3万円で生活している男がいる。
話を聞くと7歳から裏千家の修行、大学は高野山大学、札幌で型枠大工、牛窓でヨットガイド、軽トラで車上生活をしていたとのこと
年齢は40歳前後だが、いまは屋久島で150坪の敷地の3坪程度の家を月1万円で借りて生活している。松峯機織り工房と名乗り、アクセサリー販売をしており、月の売上は奇すくも3万円前後
いろいろと聞いてみた。風呂は雨水を貯めた五右衛門風呂、薪も使うが携帯コンロ、水道は基本料金が高いので契約解除し川の水を汲みに行っている、電気は小型冷蔵庫のみでテレビ無し、夜はウクレレを楽しんでいる。
貯金は150万ほどあるので、全くの無収入でも5年は生きていける。そもそも生活費が安いのでバイトを5日ほどやれば生活できてしまう気楽さ
テレビ取材がいまでも殺到しているのは、明るく話題豊富で陶芸に秀でている魅力からと思われる。1500坪の農地からは米以外の農産物が採れる。27歳から移住し60歳になっても大麦からビールを作りたい、大豆で醤油を作りたいと興味満々の生活をしている。
鹿が罠にかかったので食ったが旨く無かった、外国産の冷凍鶏肉が安かったのでひと月食べたが体調が悪くなったので止めた、などなど、そのチャレンジャー精神は面白い。
年収20万円の出処は毎年2000個ほど作る陶器を半分は壊し気に入ったものは隠しほんの一部だけ気に入った人にだけ譲った売上がそうだったらしいが、そもそも生活費は米代と焼酎代だけで、携帯も家賃もないので、そこからきたかもしれない。
陶器を買いに毎年屋久島に来る人もいるほどの陶器の出来らしい。去年は温度が200度ほど低かったので失敗したが気にいったものを再加熱したい、一度取材に応じて窯を撮らしたが気が散って失敗してしまった、陶器には達成というものは無いのだろう、日々チャレンジする、後継者に伝授する日は来ない、そんな思いを受けた。
貧乏生活に憧れ、極貧生活を楽しみ、誰にも依存せずに自由気儘に生きている人たちは、屋久島には数多くいる。
60歳を目前にして第三の人生を模索するためなのか、平成21年7月に屋久島の地に来ることにした。そこで出会ったのは、都会では遭遇しない様々な移住者達だった。
不便を楽しむ
吉祥寺で成功したお好み焼き屋。週3日は八丈島に釣り三昧を楽しんでいたというのだから、かなりの成功だったと思われる。彼は突然閉店し屋久島に移住し、原地区に掘建て小屋を10万円で建てて晴耕雨読を試みていた。いろいろと話を聞いた。
『不便を楽しむ』これが彼のモットーだった。電気無し、水道無しの生活。庭には芋、風呂は雨水、大便は穴の中に一杯になれば埋める。そんな生活だった。夜はランプで本を読んでいるらしい。
身の丈にあった月3万円生活
家賃1万円、携帯電話代1万円、食費5000円、電気代500円、自治会費1000円、焼酎代3000円などなど3万円で生活している男がいる。
話を聞くと7歳から裏千家の修行、大学は高野山大学、札幌で型枠大工、牛窓でヨットガイド、軽トラで車上生活をしていたとのこと
年齢は40歳前後だが、いまは屋久島で150坪の敷地の3坪程度の家を月1万円で借りて生活している。松峯機織り工房と名乗り、アクセサリー販売をしており、月の売上は奇すくも3万円前後
いろいろと聞いてみた。風呂は雨水を貯めた五右衛門風呂、薪も使うが携帯コンロ、水道は基本料金が高いので契約解除し川の水を汲みに行っている、電気は小型冷蔵庫のみでテレビ無し、夜はウクレレを楽しんでいる。
貯金は150万ほどあるので、全くの無収入でも5年は生きていける。そもそも生活費が安いのでバイトを5日ほどやれば生活できてしまう気楽さ
年収20万円で生活する陶芸貧乏さん
テレビ取材がいまでも殺到しているのは、明るく話題豊富で陶芸に秀でている魅力からと思われる。1500坪の農地からは米以外の農産物が採れる。27歳から移住し60歳になっても大麦からビールを作りたい、大豆で醤油を作りたいと興味満々の生活をしている。
鹿が罠にかかったので食ったが旨く無かった、外国産の冷凍鶏肉が安かったのでひと月食べたが体調が悪くなったので止めた、などなど、そのチャレンジャー精神は面白い。
年収20万円の出処は毎年2000個ほど作る陶器を半分は壊し気に入ったものは隠しほんの一部だけ気に入った人にだけ譲った売上がそうだったらしいが、そもそも生活費は米代と焼酎代だけで、携帯も家賃もないので、そこからきたかもしれない。
陶器を買いに毎年屋久島に来る人もいるほどの陶器の出来らしい。去年は温度が200度ほど低かったので失敗したが気にいったものを再加熱したい、一度取材に応じて窯を撮らしたが気が散って失敗してしまった、陶器には達成というものは無いのだろう、日々チャレンジする、後継者に伝授する日は来ない、そんな思いを受けた。
貧乏力を極めると違った世界が見えるか?
貧乏生活に憧れ、極貧生活を楽しみ、誰にも依存せずに自由気儘に生きている人たちは、屋久島には数多くいる。
真冬でも草花が育ち、水は豊富で、海には貝や魚がいる、そんな屋久島だから、生きるために辛い仕事をする人は意外に少ない。
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